fc2ブログ
淑徳大学@小川ゼミ
故郷の喪失というポストモダン状況の物語
2013年 06月 19日 (水) 04:00 | 編集
今年度で閉じる講義から、この時期の4年生へ

社会学者リチャード・セネットは『それでも新資本主義についていくか』(1999)において、アメリカ社会において20世紀末までの親世代と現世代においては、労働の形も意味も変わってしまい、その結果としての生きる意味が変質したことを問うている。
そして、それは日本においても、失われた20年を通じて、実態になった。
「親のように生きたい」という子ども達が養育過程の中で自然に持つ、「家族という物語」指向が不可能になっているという形での、社会的文脈の喪失である。
自明なライフコースの喪失とも言える。

例えば、1980年代までに思春期を過ごした親世代は、勤勉さが給与として評価され、定年まで右肩上がりで仕事と給与が伸び、リタイアした後は悠々自適の年金生活をするという生き方を夢見、実現していた。
その時代を生きた誰もが、未来は今よりもっと良い社会であると確信していた。
それを根拠に、子どもに対し、自分の人生航路を「俺もなかなか・・」とふり返り、物語れたと言える。
現代の子ども世代においては、雇用自体が不安定であり、エントリーシートに代表されるように、就労環境は非合理的で、ギャンブル状態である。
得た地位を示す給与も流動的である。希少性が評価されることはあっても、仕事の経験や蓄積が職種として評価されるは希である。
職場で歳を重ねることを、自分の成長と同一視することが不可能な社会である。
未来は不確実で、努力だけでは達成出来ないという意味においてギャンブルであり、未来とは喪失体験の言い換えですらある。
リスクを取るのが英雄であり、堅実や実直という価値の上に変化を拒むのは罪ですらある。

セネットは、パン工場の職人を例に取り、一つ一つの仕事を大切に思い、丁寧に手仕事を完成させていく熟練工の職人技が、コンピューター化された工程管理の工場では不要になった段階を経て、やがては熟練工の熟練という安定性が目の敵にされ、その場しのぎや場当たり的なワークスタイルに軽妙に合わせる反射神経が重要となった過程を示す。
それは、勤勉な労働が自分の成長物語りという体験を生み出し得ず、単なる賃金労働においてどうでも良い仕事と等価にされ、消費されてしまう不幸を指摘している。彼は子ども世代において失われた選択(=生き方)の本質を、物語れる意味の喪失として捉える。
その喪失自体を気づけないであがく悲劇を違和とし、その個人的な回収の可能性が物語であると指摘する。

「物語は癒しの働きを持つ。
 まず、物語自体の意味において。
 そして、何より、整理と体験化において。
 葛藤から混乱し、自分の状況を見失い、語れない人であればあるほど、
 物語ることは、失われた連続性を話し合いの中で取り戻していく機能を果たす。
 例えば、失敗は人をとまどわせる経験であり、物語として経験の中へ整理されない限り、
 混乱とタブーが、その中味を見えないのみならず、忘却へと送る。
 物語化することは、不明瞭で自然な忘却へと回収されがちな出来事を、
 整理し、自らの体験として理解することを可能にする。

 物語は経験の深さとして、私たちの人生に形や繋がりを与え、
 瓦解しがちな無意味から掬い上げてくれる自律性の感覚を与えてくれる。」


と結論する。

ここで彼が郷愁を持って嘆くのは、失われた公共性としての家族の成長物語であり、地域社会の物語である。
『ドラえもん』を読みなおして欲しい。
学校でくたくたののび太君が家で退屈を持て余すようにぼんやりして居ると、自分はテレビを観ていたお母さんが「コラ!のび太。宿題したの」とのび太君に未来への努力を迫る。
そのこと自体への疑いはのび太君も持たない。取りあえず、仕方なしに遊び相手探しに土管が転がる空き地へ行く。
そこには子どもたちがいたずらをすると叱る「かみなりさん」が居たりもする。
高度成長期の心の原風景や故郷と言うべき、公共のイメージである。でも、今時の子どもは、親が勉強をしろというだけでは済まない。
もし、しなければどうなるか分からないという親の想いがあるから、声かけには転落の脅迫が伴い、子どもは逃げ出して遊ぶ気にもなれないし、遊び相手を探そうにも、たまり場がない。
こう見てくると分かるのは、ドラえもんは実は大人の癒しの物語として生きながらえているということである。
一皮むけば、ドラえもんが物語るのは失われた故郷である。

故郷を喪失したディアスポラDiaspora(本来は、分散・離散を意味するギリシア語で、広く離散民、移民を指す。
バビロン捕囚後、イェルサレムに帰れず離散したユダヤ人をさす)が、現代人が生きる状況であると言えよう。
言い換えれば、表面的にはナラティブ一貫性が曖昧な自分を守り続けていることに甘えて、自覚を持てないまま、不安をかき消す心がドラえもんを求めるのである。
しかし、大きな物語を失い、私たちは絶えず自己生成のナラティブの場に投げ出され続けている現状に出会うとき、セネットが嘆いたような自覚的な物語づくりを始めねばならなくなるのである。
セネットのように語ろうという自覚を持てる場合は、嘆くという点でまだ救いがあるが、より多くの場合、私たちがことばに見はなされているため、言葉なく立ち尽くすのみである。
詩人石原吉郎が見放されると意思表示した状況である。
生きる意味を支えることばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなす時、私たちは自分の名をうばわれ、むなしいから顔を無くすのである。
自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代だからこそ、どこへもとどかなくても声をあげてみるべきである。
整理し、体験を取り戻すために。
スポンサーサイト



名無し、顔なし考
2013年 06月 06日 (木) 09:53 | 編集
今の若い人達は、親たちの時代のように、周囲の皆と同じように人並みを望むという形での未来を欲望するという発想自体が陳腐である。
例えば、大学進学も、全入時代の今では、階級上昇など未来への準備や投資ではない。
精々転落防止策、一番は転機が見つからない問題の先送りという否定的発想の対象でしかない。
しかも、エリクソンがモラトリアムと述べた際には残っていた二重否定によるポジティブな意味としての「潜在的可能性」としての意義は、本人にとっては、既に見いだせない。
進学はアマルティアセンが言う潜在的可能性capabilityの保証ではない。
取りあえずやることが見いだせないための先延ばしであり、親にとっては人並みの形を整えるための保険としても不充分である。
当然、学生生活は熱く未来を語る時期ではない。
かといって、まだそこまでひどいと諦めきれない親と未来への不安を語り合うことも出来ないし、自分を物語る言葉がないので、いざとなっても未来を嘆き合うことも出来ない。
出来ないことや分からないことの恐怖が他者に与える怒りを避けるために、物語ることは暗黙に禁止されている(と自己規制する)のである。
語れる人は、立派な未来や成功という安心コードがある人だけである(と自己規制する)。
そのようなデリカシーさを乗り越えた幸福な人の代表が、日本経済新聞の『私の履歴書』が代表するサクセスストーリーである。

平凡なサラリーマンの日常は聞くに堪え得ないと自己規制するからこそ、自分を語る言葉としての意味をなし得ない今の不安を物語る自分の言葉を取り戻すことが必要なのである。
生きる意味の難しさに気づくことが自分に出会う道である。
その時、自分が実は人に名乗れるような名前を持てないと思っている存在である事に気がつく。
あるいは、自分が素顔の自画像が描けず、化粧で塗りたくらら作られた顔しか持たない顔のない存在である事に気がつくのである。
「名無し」「顔なし」から自分の名前や自分の顔を取り戻すために、親に親の人生への質問をしてみて欲しい。
語るべき明るい老後のビジョンなどの確証ないのが平均的な姿であることを確かめ合って欲しい。
目をそらさず、不安を分かち合うことで、社会は流動化し、「人並み」の基準は何処にもなく、自前の基準が必要になるが、今ここでで語る言葉がない実情に互いに苦笑することから、私たちの言葉、私たちの物語を取り戻していく以外にない現実を確かめて欲しい。

親世代はまだ「語るべき」何かが喪失してしまった感覚はある。
しかし、子ども世代には、最初から無い物語は喪失として意識し得ない不幸がある。
名無し顔なしの転機は考察の対象にならない。そこに虚無という実感できない不幸がぽっかり口を開けている。
たとえば、自分が欲しい物がない人は、周囲の人と同じモノを望む。ジャック・ラカンが言う他者の欲望である。
しかしそれは、手に入れた途端、ダサく陳腐なものでしかないことが分かり、魅力が消えてしまい、欲望は満たされない。
それは、行列のできるB級グルメのお店に並んで食事をした後、大したことない、時間の無駄であったという後悔として、馴染みの感情である。
関係性において全てが陳腐化するからこそ、自分だけの価値を持たねばならないという想いだけが強まる。
しかし、それを満たすものが見えないという想いだけが肥大する。
裏返しになると、今の自分は幸せ、欲しいものはない、という不幸な幸福という姿になる。
欲しいモノがないということは、行動する方向すらなくなることである。語るべき人生行路がないという感覚すら失われ、今の一瞬にかけて生きる存在へとなって行くのである。
安心した相対化が出来ないが故に、逆説的に自分の価値を高く見積もらざるを得ない。
このようなあり方は、コフートが、「誇大自己」と呼んだような偏った「かけがえのない自分」である。
copyright (C) 淑徳大学@小川ゼミ all rights reserved.
designed by polepole...